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カタクリ家の幸福

カタクリ家の幸福

01三池崇史 (リーブル池袋)

いまの日本で一番おもしろい映画を連発する監督の作品が、これほど次々と観られるのはなんと幸福なことか。一作 を観終わって、次作を渇望すること無いなんてことがあり得るのか。あらゆるうるさ方を唸らせながら問題作ばかり作っ てしまうアタマの中はどうなっているのだろう。

この映画は韓国映画『クワイエット・ファミリー』のリメイク。この映画のリメイク権を誰が買ったのだろうかというハナシ もあるが、これを三池に振った松竹もようワカラン。これをオペレッタというか歌謡ロックショーに仕上げる三池監督もよ うワカランなあ。ただどんな映画でもおもしろく作り上げてしまうテクニックを手に入れたことで暴走度はますます加速し ている。

このテクニックが果たしてどこから来たのかをずっと考えているのだけど、まったく予測が出来ないけれど抜群の安定 度と納得度を持ったカット割りは映画を観たりしているだけじゃ出来ないよなと思う。現場を知り尽くしていないと生まれ ない。

誰にも似ていないが、これが三池カットだ、というのも無い。省略と豊饒を一度に画面に納める。予算と時間が限られ た現場で最大限の効果を出す。かと言って安直などこかで観たカット割りに逃げない。

これって映画の手法よりは、テレビの自由さではないかと思う。テレビ映画の現場に何本も付いていたこともあるだ ろうが、35ミリフィルムの感度がヴィデオよりも、実は遥かに自由度が大きいことを監督はよく分かっていると思う。それ を実現する撮影・照明チームもいままでの映画製作現場の思考パターンに囚われていないのだろう。普通は恐くてもっ とカットを割るのをワンカットで撮ったり、逆に、こんな即物的なアップは入れないよと言われるのを平気で入れて、短い 数秒のカットとして成立させる。ワンシーン・ワンカットも手法としてだけではなく、現場の効率と効果を一挙に解決するこ とを旨としている。

かれの一見ごちゃごちゃに見えるフィルモ・グラフィーを家族、家庭の共同体への執着をキーワードにして解き明か せるだろうか。三池映画の登場人物は、いつも 共同体とその周辺にいながら、はじかれているハグレ集団の中で の諍いを描いているように思える。

それは、デビュー作からチャイニーズ・マフィアと中国残留孤児の子供たちという合わせ鏡のような登場人物を配して いることからも明らかだ。『殺し屋1』にしても、イチと垣原を考えてみればわかるし、『DOA』シリーズの力と翔もそうだ。 おもしろいことに対立していても必ずどちらかは大組織で一方は小組織なんだよね。それも外からその集団を壊そうと する相手には徹底的に戦うという、いわばチンピラの疑似家族の世界が根底にあるのではないだろうか。登場人物の 対立軸はすぐには分からないが、次第に日本人(アジア人)にはしっくり来るもの任侠なので受け入れられるようにな る。ヤクザ映画の世界だね。

大体いつもアタマに人がゴチャッと出てきてその関係がなかなか分からないんだよ。そこでは既に映画の前の設定段 階で出来上がっている役割分担で動いているので、彼らにとっては自明な関係なのだけど、映画では観客には分から ない。『DOA』の1も2もそうだ。いわば裏設定が既に監督のアタマのなかでは出来ているということ。それを説明すること には興味がないんだろうね。

話が動き出すのはその内部においての諍いから起きる対立からで、それもその外側にいる巨大な敵の出現を待つま でだ。それが疑似家族を呑み込もうとすると死にものぐるいで戦う。その様がいつも泣かされる。そこには犬死にと崇高 な犠牲が必ず交互に現れるが、そこには救いは無い。必ず、 誘惑されて仲間から裏切り者が出てきたり、女が虐待 されたり、過度な残酷シーンも、共同体を抜けようとしたり、守ろうとしたりする過度の動きだ。ただそれらはすぐにもっと 大きなものに呑み込まれてしまう。主人公に平穏か和解が行われようとすると、その相手が死ぬことが多い。

ラストの結論は常に恣意的ケレンなので感情的な話は、大体その前にヤマを迎えて終わる。最後は映画的な面白 さ、カタルシスに持っていく。そこがタガが外れた風に見えるのだろうね。いわゆるケレンのラストシーンがそうだ。そこで はすべてがチャラにされるのでマジメな人は怒るんだろうね。まあそれは正しいけど。そこまで来ると監督の意図はスト ーリーラインに沿ったところから逸脱して映画の画としてここまではいけるよなと暴走するようだ。『DOA』のCG、『アンド ロメディア』の海辺の桜、もそうだろう。

こう考えると『DOA2』を監督が大好きなのもよく分かる。ふたりの仕事や生まれ育ちを通じた関係性やユートピア 感、共同体の在り方が監督の理想だと言うことが考えられる。

でもさ、ヤクザ映画の典型の展開といえばそれまでなんだけど、三池映画の映画の感情の起伏の流れが似ていると 感じるのはこの辺だろう。逆に言えばどの脚本もこのラインに作り直してしまうのだろうと思う。

『カタクリ家の幸福』のこのラインに近い気がするけど。家族愛というか共同体への監督の考える偏愛は本気だと思 う。

馬飼野康二の音楽も歌謡曲していて、沢田研二の唄にうまく乗せることができている。HD24pでの撮影もまだ未完成 な機械をうまくボロがでないように、速いカメラの動き、過度のアップ、照明のコントラストの差が無いようにと工夫してい る。

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