映画-etc, Art: 美術, 本-て, 本-ほ

ホックニーと映画


デイヴィッド・ホックニーの作家の視点からの、絵画に対する考察の過程が面白くスリリング。いますこしずつ写真芸術のことなど調べているから、かれの絵画と写真の関係についての考えを読んでドキッとしました。

写真は現実の記録として完璧なものと思いがちだが、それはルネッサンス絵画の究極の姿にすぎない。写真とは、ルネッサンスの遠近法理論にもとづく機械である。15世紀のイタリアで消失点が発見され、この遠近法は人類最大の発見のひとつとされた。小さな穴を通してスクリーンに写るフィレンツェの姿を見ていたブルネスキは、それを固定した視点から描いた。(中略)カメラは写真術のはるか昔、16世紀になってそれにレンズが付いたのだ。19世紀の写真術は、小さな穴を通して壁に写る外界の姿を化学的な処理によって定着させただけのことである。写真は化学的な発明としては新しいものだったが、視覚的な発見としては15世紀に遡る。その意味では写真は何かの始まりではなく、終着点なのだ。
そして、写真を越えるものが現れる。従来の写真ではとらえることの出来ない真実に迫り、現実をより鮮明に表現することができれば、写真を越えられるはずだ。それをするのがキュビスムの絵画なのだ。

そして、ピカソがなにを描いてきたのかを解き明かす。

僕の場合、時間はかかったが、他の人の見解とは逆に、ピカソの絵において物の形は何も歪んでいないことがはっきりと分かった。確かに、対象を見る視点を固定し、凍りついた時間の中で瞬間的にとらえようとする立場からすれば、歪んでいるように見えるかもしれない。だが、ピカソは、時間も絵の中に取り入れているのだ。対象を捩じ曲げて表現しているのではないことがわかれば、彼の絵が次第に真実のものとして見えてくる。普通の自然主義の絵の方が現実味を失って見えてくる。

ピカソとワトーの大きな違いについて僕は説明した。ワトーの場合、女性の化粧の様子を別の部屋から扉越しに覗くような設定になっている。ところがピカソの絵では、モデルの背中も正面も同時に見えるので、この絵の鑑賞者は自分の位置が分からなくなってしまう。つまり、この絵を見ている人は絵の中にいるようなものなのだ。つまり、絵の外にいてそのまわりを回っているわけではなくの。ワトーの絵では、鑑賞者は鍵穴から覗いているようなものだが、ピカソの絵はそうではない。
ワトー「秘めた化粧」ピカソ「横たわる女」

ここでわたしが思ったのは、キュビスムやピカソの問いかけは、映画が受け継いだのではないかということ。
例えばアンドレ・バザンが顕揚した、オーソン・ウェルズやウィリアム・ワイラー、ジャン・ルノワールの長回しを主体とする方法は、時間の経過とともに構図(フレーム)が変わっていくことに着目することができる手法だ。この場合消失点は、キャメラが動きや移動によって複数となると云っても良いだろう。絵画や写真とは明らかにちがう映画独自の表現だ。
その一方でモンタージュという手法がある。これは物語を効率的に語る手段と思われているが、上記の文脈に当てはめてみると事情が異なって見えてくる。絵画や写真の持つ消失点を無効にして、繋がらない空間を時間軸の中で繋げることへの欲求から生まれてきたということも言えないだろうか。

いまはもっとこれらが高度に組み合わさっているが、基本的にこのことに自覚的かどうかが、映画を無意識に面白いと感じるヒントであるような気がする。

わたしの中では、優れた映画作家かどうかを見極める基準のひとつは、基本的にタテ構図を使わないことにある。要するに消失点を見せない構図を作りや、キャメラや役者を動かすことができるかどうかなのです。
要するに映画が最終的にスクリーンという二次元だということにかどうかにどこまで自覚的かということですね。そうでないと見かけの三次元の現実に寄りかかってしまい、映画を単なるキャメラによる記録媒体にしてしまっていると言う事になります。

近代の画家達は、自分が現実世界を相手にしていると思っているが、その世界というのが写真のような姿をした世界なのだ。彼らは、それを芸術的に表現することが創造活動だと思っている。しかし、世界とはそのようにたやすくとらえることのできるものだろうか。僕はそうは思わない。ある固定観念によってとらえられたと思っても、すぐにそれを逃れてしまうというのが現実というものなのだ

それとどのように戯れてゆくのか。ある時は逆にドキュメンタリーやロッセリーニのように崩していく。ゴダールの出鱈目に見えるやり方も実は意識的に行われていることがわかります。「時間と空間の戯れ」それが映画の遊びであり愉しみだと思います。

ところでホックニー自身は映画を作らないのかという質問にこう答えています。

映画の製作者達はスクリーンが平らな表面であることを忘れてしまっている点で明らかに間違っている。彼らはスクリーンという表面の存在を否定し、その奥を見せようとする。スクリーンの上で物を見せようというわけではない。つまり、眼前の事実をないがしろにしているのだ。

ホックニーの作品に動きと広がりを感じるのは、複数の継続する時間と消失点があるからなのでしょう。

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