映画本-え, 映画本-ま

マッケンドリックが教える 映画の本当の作り方

『マダムと泥棒』(56)、『成功の甘き香り』(57)を監督した、アレクサンダー・マッケンドリックは、1969年に映画界を引退後、カリフォルニア芸術大学(カルアーツ)で教鞭をとった。本書は、その授業で使われた資料を中心にして構成されている。

「映画監督になるためにはどうしたらよいか?」学校で学生が映画を学ぶとき、教える側には大体二つの態度がある。個性を尊重すると称して、ひとりよがりな作家みたいな出来損ないの作品を作らせて芸術と鼓舞するやりかた、反対に徹底的に、いまある業界で主流の技術のみを教えるやりかただ。どちらにしても卒業後、実際に現場に出たら役に立たず、また最初からやり直す羽目になることは間違いない。

著者のマッケンドリックが自らを仕事人を称することからもわかるように、ここではひとりの作家を生み出すことを目的にしていない。学生がすぐ口にする、もうそのやり方は古いなどという態度をたしなめる。映画は共同作業なのだ。ひとりでは作れない。逆に技術だけを教えることもない。技術は日々進歩するからいつまでも教わったひとつのやり方に拘泥していても仕方がない。身も蓋もないことを言えば、映像言語は教えられないのだ。あるいは教わっても意味がないのだ。

しかし、何とかして映像を観客に伝えようとした先人たちがいたし、その優れた作品がある。彼らが積み重ねてきたことを分析し、読み解くことで、映画を作ることが学べるのではないか、という試みが本書の内容だと言える。だから、既に映像や映画を作っている者から見たら、身についていてもはや常識なことばかりだけれど、助手として現場で走りまわって基礎を学んだ者が、一本立ちをするときに読み直せば、いままで言われたままにやってきたことにはこんな意味があったんだということに気づくはずで大変参考になるだろう。むしろ学生にとっては難しい内容だと思う。だけど、学生の時に読む価値のある本だ。授業を受けた映画製作者が語っているように、実際に現場に入ってはじめて学んできた授業の内容が理解できて、それがずっといまでも役に立っているという。そんな実践的な教科書だ。

実践的と云っても、技術書ではない。確かにシナリオの構成や、キャメラの置く場所、モンタージュの基本を教えるが、手っ取り早くマネをすれば“映画らしく見える”ノウハウではなく、なぜそうするのか、なぜそれが効果的なのかを理解させることが目的になっている。だからこれを学んでいくことで、監督、プロデューサー、撮影、シナリオライターと職種が違っても、同じ「映画」に対する共通の認識を作り出すことができるようになる。作り手として「映画が読めるようになる」のだ。それができれば、そこから先、個々人がどのような作家を目指そうと、技術が新しくなろうと何の問題もない。更なる高みに行くことができるのだ。マッケンドリックはそのことを「プロダクト(製作)ではなくプロセス(過程)」が大切だと繰り返して語ったという。芸術ってそういうものじゃないかな。教育ってそういうものじゃないかな。

個人的に、特に面白かったのが、「シーンの密度とサブプロットの役割」として、『成功の甘き香り』のシナリオを取り上げ、アーネスト・レーマン(『北北西に進路を取れ』)の書いた、第一稿を、クリフォード・オデッツがどのように書き直したかを、あるシーンを取り上げて解説する章だった。オデッツの才能の凄さを目の当たりにした気分です。さすが一流の戯曲家です。

最後にもう一度、本の序章に書かれた最初の言葉を引用します。

映画は媒体である。映画とは、作り手の想像力から、そのメッセージの発信先にいる人々の心の目と耳に、特定のコンセプトを伝達するコミュニケーション言語である。したがって、そこには絶対的なものは何一つ存在しない。受け手に解釈されて、その人の想像力に意味がもたらされないかぎり、そこにあるあらゆるものが無意味だ。この事実は、そんな言語や媒体にも当てはまるだろう。媒体とは、ある種の取決め、つまり、語り手と聞き手、絵を描く者とそれを見る者、演者と観客によって長年かけて培われてきた約束事によって成り立っている。長い年月を経て、意味づけのシステムが確立され、その言語における語彙や体系や文法が養われてきたのである。そんなわけで、こういったコミュニケーション言語は、観客と書き手が新しい表現方法を開発しようとしている限り、ゆっくりしながらも常に進化し続けている。

成功の甘き香り

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