映画-う

姑獲鳥の夏

姑獲鳥の夏『魍魎の匣』公開記念版
実相寺昭雄監督作品。

日曜の夜に教育テレビでやっている「N響アワー」に実相寺がゲストで来ていて、番組の司会者でこの映画の作曲家の池辺晋一郎と話していて、実相寺作品では、作曲家は尺に合わせて、音楽を書くのではなく一曲全部書く。それを実相寺が使う場所を決めてサウンドトラックにはめていくと語っているのを聞いてのけぞった。

そのあとに円谷一の伝記本を読んだら、円谷の音楽に対するポリシーは、“シーンに音楽をあてはめるな、シーンが終わっていても音楽が続いていても良いんだ”というものだった。このふたりの映画の音楽に対する考え方が似ているなと思い、どちらかの影響があったのだろうかと考えてしまった。

妖怪シリーズの長い原作をどう料理するのかと思ったら、全部丸ごと入れてきたのに驚いた。うん、確かに全部入っているなあ。不思議不思議。いやこの世の中に不可思議というものはない…ハズだ。

キャスティングは完璧ですね。この妖怪シリーズは意外と映像化不可能のように思えるけど、実はタイプキャストとしてきちんと役割分担されているので、当はめやすいと思う。 役者の年齢がばらばらでも気にならないし、そのあたりのアンサンブルもうまく行っていると思う。

謎解きものだから詳しく書けないのですが、やはりメイントリックをうまく処理することは難しいですね。小説だから成立する部分もあるし、そのための衒学講義が全編に散りばめられている。映像にするとなーんだということになっちゃうわけでしてね。そこがどうしても曖昧になるために、最後まですっきりしない気分になるのは仕方ないのかなあ。

そんな制約が多いものをどう捌いたか。物語の案内役である、永瀬正敏演じる、小説家の関口の情緒不安定さをこれでもかというくらい突き放し、すべてを白日夢、それも悪夢に変えていった。そのために逆に物語の現実世界、過去、未来までも歪むいびつな世界を生み出すことができた。夢と現の狭間を行き交う危うさ、それが実相寺作品の切り口なのだろう。

ただ普通その世界に入り込むと、どんどん出口が見えなくなってくる はずだが、一方で意外とあっさりと現実に戻ってきて何事もなかったかのように日常を続けるのも実相寺作品のような気がする。夢はいつかは醒めるものという気持ちと醒めないで欲しいという願望を持っているが、両者を混同しないで、どこかで明確な線引きをしていたのではないだろうか。白日夢はたっぷりとケレンで味あわせるが、そのケレンは破天荒なものではなく、いつか戻ってくる現実との距離を計算ながらの遊びだったと思う。突き抜けてしまうタイプの監督ではなかったと思う。そういうことは恥ずかしくてできなかったのではないだろうか。

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