映画本-か

監督中毒 三池崇史

監督中毒監督中毒

自分の書いてきた三池作品のレビューを読み直して、それほど外してはいないようだと安堵する小心者です。

この本を読んでも彼の映画作法は少しも解明されない、映画界に入る前の生い立ちや私生活についてもまったく触れられていないので、その方面から映画を解釈する方々には資料としての価値はありません。

ただ彼が一緒に仕事をしてきた映画人たちへの、愛憎が入り交じった視線の延長に三池作品があるのはよくわかる。彼が冷静な観察者だったと言っているのではない、そういう時代だったということだ。フィルム撮りの1時間テレビドラマや2時間サスペンス、Vシネから、劇場用作品を作ったことのあるベテラン映画監督たちが排除されていく最後の時代であり、最後の徒弟制度の体育会系が通用した時代。ちょうど浮かれバブルの終わりであり、何一つ新しくないトレンディ・ドラマという言葉が出てきた時代に、いろんなものを見てきたのだと思う。

テレビに乗れない監督たちやだれがどう撮っても変わらない連続ドラマ。それが良いとか悪いとかじゃない、仕上げなければ放映に間に合わないし、そういう仕事なのだから。ただ秘かにそれだけじゃダメでもっとやり方はあるはずだとは助監督として感じているだろうが。

三池はセカンド助監督としてものすごく優秀だったんじゃなかろうか。本人もそのポジションが心地良かったと思う。遊軍的な位置であり、製作における裁量も大きく、言い換えれば制作部としてのチカラも必要とされる。チーフ助監督のスケジューリングや監督の補助という仕事から逃れて、純粋に現場と立ち向かうことができる、それも長年やっていればいるほど手練れになっていく。

ある意味、三池の監督のやり方はセカンド助監督のフットワークの軽さで撮影を進めているとは考えられないだろうか。時間がなければどんどん撮影方法や、間に合わない小道具は映らないようにするし、現場で面白いと思ったことはどんどん変更していくやり方。それでいてどこまで冒険できるかを見極める眼。いつもそのぎりぎりのところを試しているように思える。自分が映画を作っているんじゃなくて、ただ自分は映画の現場で撮影を進めているだけだ。それがうまく行けば面白くなることもあるんじゃないのというスタンス。それは「自分が創造主であり、作家でありたい」という概念からは明らかにもっとも遠いところにいる。それを理解しない限りあらゆる評論は空を切ると思う。『牛頭』はそんな遊軍的スタンスの傑作だけど、反面そこまでやるとオモシロがるところはもう無いねという限界も一応は見えてきたのではないだろうか。次はプロデューサーとしての仕掛けを入れてくるのか、それともシナリオをもっと引きつけて撮るのか、どちらせよ、楽しみだなあ。『着信あり』と『ゼブラーマン』。

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