Lytroの閉鎖

ライトフィールド技術を使ったシネマカメラを開発中だった、Lytroが整理中との情報が流れてきた。ブログで注目のテクノロジーと書いていたので非常に残念だ。しかし正直な話、カメラが完成するのだろうかという疑問と、完成しても映画/映像業界のニーズがあるのだろうかという問題を抱えていたと思う。まだVR市場が本格的に立ち上がっていない現状では、それらの疑問に答えを出す前に、開発は中止されてしまうのだろう。

カメラで「空間を切り取る」のではなく、カメラで「空間全体を記録する」ことへのニーズはこの先かならず来るはずだが、まだそこまでの画面の深度は必要とされていないのだと思うし、本当にそこまでの膨大なデータが必要なのかという疑問もある。またライトフィールドカメラだけで、映像が完結するのかという点もあるだろう。いくら撮影後からフォーカス深度を変えられるからと言っても、VR内のVFX合成の他に何に使えるのか今ひとつわからない。結局は、「撮影後にピントを合わせられる」初期のスチルカメラ用のLytroが、すぐに飽きられてしまった失敗から変わらなかった気もする。難しいですね。

3D→VR/ARに変化するに従い、空間(時間)の「記録」から「生成」(リアルタイムや複数の視点)にフェイズが移っていくような気がしています。要するに、記録したデータから、どのような生成が行われるのかに焦点が移っていると思います。マテリアルとしてのデータ自体のモノから、イベントとして活用できるデータのコトへ、ということなのかもしれないです。

しかしライトフィールド技術は、何らかの形で復活すると思います。それはVR市場が成熟して、その時により細密な空間のデータが必要になる時期が来るはずです。それまでしばらく待つことにします。

Pocket
LINEで送る

光の正統性、あるいは、私は心配するのを止めて如何にして映画を見るようになったか

少し前に、ある人と話しているうちに「どのように映画を見ているか」という話題になって、あれこれ話したのだがお互いに納得して理解できたかはいささか不明だった。改めて考えてみると、私が十代から二十代にかけて、それこそ当時猛威を奮っていた「画面の中だけを語る」病に罹らなかったのは、映画を批評家のように見ていなかったからだと思っている。中学生の頃から、私にとって映画を見ることは、どうやって映画が作られているかを知るための手段だった。平たく言えば映画を見ることは、映画監督になるために訓練だった。そのためにはスクリーンを凝視しての、我を忘れてのめり込むんじゃなくて、逆にある程度客観的に醒めながら距離を置いてみる(でも面白い映画には、すべてを放り投げて没入しまうのも確か)。もっと言うならば、スクリーンをキャメラのファインダーを通した画として覗き込み、更に自らは幽体離脱して、撮影現場を俯瞰して見る位置に透明人間なって観察する。その時には、ここはどんなロケ場所で、ライトの光の方向はどこに向けられているのかに注意しなければならないし、どのように移動車のレールがどのように敷かれているか、あるいはステディカムはどういうルートを通って何を捉えようしているのか、なぜカメラはどうしてここあって、この高さに置かれているのかを瞬時に見て取り、同時に考えないとならない。そして監督は、どういう風にシナリオを解釈して、どのタイミングで役者を動かし、どうしてこのテイクにOKを出しているか、その理由を見抜くようにする。だから座席に座りながら、受け身じゃなくてひたすら能動的に、映画製作の撮影現場、編集室、ダビングスタジオを飛び回って、上映されている一本の作品を遡って、バラバラにして、リバース・エンジニアリングで再構築によりその具体的な工程から意味を探る。当然、まず最初に全カットを暗記しようと努める(これは気力が必要でかなり疲れるので、30歳くらいで止めましたけど、いまもある程度はできると思う)。だから一本見ると、眼だけでなく心身消耗してヘトヘトになるから、映画を見るためには体調を整える必要があるし、ビールを飲んだりポップコーンなど頬張るヒマすらない。このやり方は無勝手自己流だったけど、非常に役立ったと思う(特にひとにはススメはしませんが)。以前、あるスチルカメラマンと話をした時に、彼も助手時代は街を歩きながら、一日中、様々なシチュエーションで、常に露出とシャッタースピードを目視で計測する訓練をしていたという。映画/映像は光から成っている。だから光を読むってそういうことだと思う。

まあ、それは汎用性が無い、個人的な動機に基づいたメソッド(?)だったと思うが、しかしこれだけでは、現場のノウハウであって、面白い映画を作るための手助けにはならないのではないか。映画の良し悪しを判断するためには何が必要で、どこを見ればよいのか。良い映画と呼ばれている作品ばかり見ても、自然に自分の鑑賞眼が上がるわけでもない。それよりも自分独自の鑑賞眼を鍛えて、自分なりの見方を確立して、映画の良し悪しを見るようにしたほうが面白いはずだと気づいた。わかりやすく言うと、ジョン・フォードとアルフレッド・ヒッチコックとハワード・ホークスとジャン・ルノワールと小津安二郎と溝口健二と黒澤明を、等価に評価するためにはどうしたら良いのか。スタイルやアプローチが違う映画作家と呼ばれる人を論じる方法があるのだろうか。また同じ映画作家でも常に同じスタイルとは限らない、いつも同じ歌ばかり歌っているわけではないということも忘れてはならない。結局誰かが褒めていたからというのでは、他人の目を借りているだけではないか。もちろん昔から言われるように、映画評論と野球評論は誰でもできるので、そんな目くじらを立てることかと言われると敢えて反論はしませんが、たくさん映画を見ているなら、自分なりの目利きはしたいものです。

いろいろ考えました。構図の作り方が絵画的か、シンメトリーを重視しているか(例:キューブリック)、人物と背景の図と地の余白の作り方。わかりやすいシンボリックな動作、「投げること」と「交換の仕草」、「水と火と土と風」、「運動」とか「差異」とか「似ているところ(オマージュ)探し」など考えましたが、そのようにザクッとした言葉で分類しても、画面に出てくる映像のパターンは、基本的には大体似たり寄ったりなので、簡単に「これは◯◯の映画だ」と名付けることができるし、それで何か言った気になる罠に、自ら率先して落ちてもしょうがないと思ってすぐに止めた。周りが「リュミエール」のハメルーンの笛に引き寄せられて、ダークサイドに落ちていくのを横目で見ながら(現に壊れたテープレコーダーのようにデッドコピーの如く、本に書いてあることと全く同じことを語る人を何人も見た)、長い思索と試行錯誤の果てにたどり着いたのが、「光の正統性」だった。

あ、その前に元々小林信彦の洗礼を浴びていたから、野暮は言いたくないって思っていたのもありますね。

さっき書いたように、長回しか短いカット割りか、手持ち撮影かフィックスか、スタイルの違う映画作家を好きになるだけなら難しくないが、どうやって同じ土俵で評価したら良いのか。そのためには基準を見つけないとならないと考えた結果が「光の正統性」です。「光」そのものは普遍でしょう。太陽は東から昇り、南側を通って西に沈む自然光。夜は何らかの人工光が必要になる。当然のこととして映画は真っ暗だと映らない。そして光があるとカゲができる。カゲには二種類あって、「影」(Shadow)と「陰」(Shade)がある。 光も様々だ。極度に明るいハイライトや物体に当たってできる反射光がある。フィルムも屋外のデイライト・タイプと、屋内のタングステン・タイプがある。照明も色温度によって変わったりする。被写体に真っ直ぐに当てる直接光と、バウンスして当てる間接光がある。これらを各カット、各シーン、作品全体としてどのように扱っている/扱っていないのかを丹念に見ていくと、映画のつくり手の企みが分かるようになってきた。

映画の作り手たちは、映画を物語るために光をどのように扱うか、それは映画の感情を光で表現することだと考えています。

「光の正統性」というのは、その時に映画としての美しさを作り上げるために、光/カゲを想像することであり、そのためには光線が美しくあれば、人間は映画の嘘を信じてしまうという特性を利用することなのです。最近はカメラのダイナミックレンジが広くなったので、自然光でかなりの時間帯でもライトが無くても、それなりの美しさで撮れるが、それでも、意識していようが無意識だろうが、どの時間にどうやって撮るのかという光源(ライトソース)をどう扱うのかという問題は不変であり、それは全て画面に現われます。逆に言うと、映画で表現するためには、その映画のための光を選んだり作ったりしないとなりません。わたしはそれを「映画の感情をつくる」と呼んでいます。たとえ現実にありえないような光であっても、見る人に感動を与えるために光のパレットを扱う。それが映画の面白さであり、優れた映画のほとんどはそうやってできていると思うのです。ただしコメディやミュージカルはまた別もので、徹底的にフラットな画面にするために光は貢献しています。もちろんドラマチックさを表現するための光は、演劇から来ていることも否定しません。しかし映画の場合は、演劇よりも広範囲の光を扱うことができます。別の言い方をすると光を音楽のように扱えると言えるのかもしれません。

念のために言っておくと、雑な照明をしているからダメなのではなく、「光に正統性」を与えられないからダメなのです。この光は、この映画のため、このシーンのため、このカットのための、どういう意味があるのかを感じさせないことが問題なのです。画面の美醜の問題ではありません。ヴィム・ヴェンダースが『ことの次第』で、『美女と野獣』の撮影監督アンリ・アルカンと初めて仕事をした時に、なんて雑な仕事をするのかと思ったそうだ。それは一つのカットで人物が動くと影がいくつも出るような照明をしていたからだ。ヴェンダースはその前に『ハメット』で、ロバート・アルドリッチの撮影監督だったジョゼフ・バイロックと組んで、人物の重なる影を一つ一つ丁寧に消していたという。しかしラッシュが上がった時に、プリントの美しさに打ちのめされた。アルカンは光と影でモノクロを表現するのでは無く、中間のグレー(灰色)の濃淡で映像表現しようとしてたという逸話がある。光の正統性を考える時、正解はないところが面白いと言えます。夜は暗くて当然だけど、どうしたらそのなかでドラマで表現できるのか。どの明るさを選ぶのか、光源は何を選ぶのか、その理由は何か。それらを映画製作者がどれくらい考えているか。すべてのカットには、意味があり、それは創造的な恣意性/潜在的な無意識によって選択された美意識なのです。同時に予算、技術などの制約があります。それを探すためには、光をひたすら見つめること。比喩表現じゃなくて、頭で考える「美しさ」に簡単に誤魔化されないで、本当の美しさ/美しくなさを見出すこと。それが映画の面白さを読み取り、映画に近づく方法だと思うのです。

 

 

Pocket
LINEで送る

デスクトップ・ハリウッドの誘惑

前回の投稿から、3週間ほど経ってしまったが、その間にGoogleがLytroを買収する話が持ち上がったり、 Unreal Engine4で新機能「リアルタイムレイトレーシング」が発表されたり、MagicLeapが開発者向けSDKを公開したりと、目まぐるしい変化のスピードについて行けないが、逆に言うと、ある意味この先の方向性が見えやすくなってきたような気もする。もちろん私の場合、VR、AR界全体の話ではなくて、あくまでも「映画」に限定しての話だが。

まずゴーグルのコードレス一体化、高画質化、ライトフィールド技術によるリアルさの追求。そして敢えて今はVFX合成のリアルタイム性と言っておくが、要はヴァーチャル・リアリティ世界の現実化。物質的なリアルさと仮想的なリアルさが近づくことで、映画/映像制作の壁が取り外される。これまでの、プリプロダクション、撮影、ポストプロダクション作業が、区別なく一体になっていくだろう。そしてこれらの作業の民主化あるいはコンシューマー化は、デジイチがインディーズから中規模映画製作のワークフローを変えたように、現在の大規模予算ハリウッド・ブロックバスターとシームレスになっていくことが考えられる。それを映画のゲーム化と呼ぶのか、ゲームの映画化どうかは分からないが。

大状況は、リアルさを軸として推移していくのだと思う。映像をキャプチャ(インプット)するためのツールはカメラだが、切り取るのではなく、あくまでも空間全体を記録するものになるだろう。撮影が不必要になるのではなく、撮影者はこれまで以上に、プリプロとポスプロに係るようになるはずだ。そしてVR時空間内を、ARカメラで撮影するのだろう。これらを統合するシステムがゲームエンジンになる。いわば映画を撮影するスタジオと、絵コンテやセットを作成するプリプロ、編集や音響ダビングを行うポスプロまで全部一緒になったヴァーチャル空間で、一気通貫生産方式が可能になるはずだ。謂わばあらゆる場所で(もしかしたらクラウドか)、デスクトップハリウッドが出来上がる。映画製作からグリーン・バックが消えた時が、その完成の時だと考えている。同時に映画が二次元から解放され、もっと自由な存在に瞬間になるだろう。

Embed from Getty Images

追記:リアルタイム・レイトレーシング技術について開発者のインタビューが掲載された。レイトレーシング技術そのものは、CGをフィルムのようなリアルに見せる手法(フォトリアル)として使われていたが、リアルタイムになることが大きいと言う。未来の映画制作にインパクトを与えるだろうと予想している。上段のブログ記事に書いたようなことが起こるのだろう。ILMxLABでは、没入型(VR環境)のリアルタイム・ストーリーテリングの方向性を探っているようだ。

また『レディ・プレイヤー1』でモーションキャプチャーに採用されたVicon社は、Unreal Engine4を使ったリアルタイム・モーションキャプチャーのデモを行った。

Pocket
LINEで送る