あくたれ!

教養小説というジャンルがある、あるいはあった。青年が遭遇する様々な社会の苦悩を通して彼らの成長を描くジャンルだ。それは20世紀の半ばまでは有効な物語であったと言える。「青年」というものがなんとなくあったからだ。言い換えれば、社会の一員として組み込まれるまでの一時的な許されるモラトリアムの時間が存在していたということだ。それは一方では、ゲームとしてのケンカや対決に陥ることでじゃれあい幼稚さを担保するだらだらとした世界観を持つ。もう一方では無機質なニュータウンが生み出す殺伐とした暴力としてのケンカに収斂される。どちらにせよ行き詰まった考え方でありジャンルと思われていたことは確かだろう。

「あくたれ!」を読んで驚いたのは、そのふたつの行き詰まりを軽々と越えて、その先の清々しいまでの高みまで達していたからだ。大体、現在の日本の青年の成長を描いた小説が面白くなるわけがないではないか。これだけ青少年向けのエンターテインメントが溢れる中、薄っぺらい現実を生きる彼らにどんな物語を求めるようというのだ。せいぜい記号化した中での動物化したポストモダンな自分探しのストーリーではないか。
しかし「あくたれ」はどこまでも疾走する。ここに確実にある風景の中を。むせ返るような切り離させない人と人の距離を。淀んで息苦しいが愛すべき郷里の坂を。80年代後半ならいくらでもままならない言い訳だけを描き、平板な風景に物語を溶けこませることは難しくないのだが、著者はズラして逃げたり知らぬふりをして通り過ごすことをしない。敢えて愚直に正面から挑んでいく。それは主人公のシンの姿にも重なる。ただそれだけでは青年の叫びを描いた勢いだけの愚鈍な小説になってしまう危険がある。
著者はここでスティーブン・キングやアメリカのハード・ボイルドが生み出した手法を的確に使っている。固有名詞を散りばめて風俗や当時の空気を描く方法だ。これは村上春樹以来、日本の小説でも欠かせない手法だが、ここには罠がある。ただカタログ的に単語を並べれば良いというものではない。そこにどれだけの著者による批評が入っているかで文章が生きるか死ぬかを分ける。映画、音楽について批評眼がないとこれは成立しない。私は非常に成功していると思う。いくつもの固有名詞がここぞとばかりに出現して、登場人物たちのセリフを借りてあきらかに小説の流れを加速しているからだ。軽い単語遊びではなく魂が入ったこういう作業を本当のポップカルチャーというのだと思う。

小説の舞台は長崎だ。最初はそれを意識していなかったのだが、途中でふと「丘の火」という言葉を思い出して読みながらあっと声を出してしまった。「丘の火」は諫早の小説家、野呂邦暢の作品で、日本の隠れたハードボイルドの傑作だと思っている。ロス・マクドナルドを彷彿させるストーリーで舞台は長崎だ。わたしは長崎は子供の頃一度だけ行ったことがあるが、記憶はほとんどない。しかしノンフィクションならともあれ、フィクションの「あくたれ!」を読んで同じ舞台の小説を思い出すことなど経験がない。小説における描写力が的確だということだろう。わたしが好きな小説は必ず、主人公たちが生きる世界の匂いが感じられ、光と影、そして風が感じられる。もうひとつ闇が感じられることが重要だ。それは夜の暗がりのことでもあり、知ってはならない人の闇のことでもある。これを風土と併せて描き切り、その景色はアジアの風景に連なってみえる。エドワード・ヤンかホウ・シャウシェンの映画に通じる湿り気の多い憂鬱が現れているのだ。

そこに描かれる地方都市の闇=悪の姿が重層的であるのは著者の体験と観察眼から来るものであろうか。歴史を背負った現実の世界に蠢く得体のしれない不条理な巨悪の姿に最初はたじろぐが、時間が経つにつれて彼らの姿も徐々に等身大に変わっていく。それは主人公の成長の裏返しでもあるし、いつまでも戦後を引きずる地方都市の疲弊でもある。しかし物事はそんなに単純ではない。それでも目を見開き、冷静ではあるが冷めずに、やるせなさはあるがあきらめない主人公の姿が共感を呼ぶのだ。彼らを取り巻く学校や警察、闇の社会といった既存の抑圧システムの本質を的確に捉え、それを打ち破ろうとする主人公達の行動の原理とディテールを描くことで物語を深める。

エンターテインメントと読み応えのある小説の文体が融合している骨太の読み物です。映画で言えば森崎東(彼も天草か…)が好きな人ならぜひ読むべきです。著者とは知り合いなので甘い書評と思われるかもしれませんがご一読してお確かめください。

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悪党パーカー・エンジェル

パーカーが帰ってきた。今のやたら銃を撃ちまくり強引に警察の突破網をくぐり抜けるような、ご都合主義的な犯罪小説とは一線を画した厳しい細部に満ち溢れた世界が帰ってきた。ディテールの細かさ。人物描写の紋切り調だけどクセのある人物、犯罪のプロとアマの区別を厳密に分けた知能合戦。裏切りとドンデン返しの意外なプロット、語り口。ああ、パーカーの世界だ、こういうのを読みたかったんだと思った。

宗教団体の寄付金強奪から逃走、裏切り、お互いの腹のさぐり合い。さりげない撃ち合い。全てが簡潔に充実している。全然執筆のブランクを感じさせない。

パーカー物が書けなくなった理由として作者は、「現金じゃなく、クレジットカード決裁になったために多量の現金が存在しないため」と言っていたが、それだけではないと思う。パーカーのシリーズは多くが地方都市が舞台であり、その街のディテール、住民の職業やどんな車に乗っているか、警官がどんな性格の奴等かなどを書き込み、その情報を元にして強奪、逃走の計画を立てるところが見せ所になっている。それが、ドートマンダー・シリーズのNYの描写と違った世界だ。

小都市が、郊外にハイパーマーケットができ、画一化していく間はアメリカ自体が不況で、強盗犯罪物の舞台装置が固まらなかったのかも知れない。だから、ただ撃ちまくり麻薬とマフィアの金を盗む小説が横行していたのかも知れない。

ここに来て、アメリカ自体が落ちつき新しいライフスタイルを手に入れられたために、細かいディテールが復活できたと思う。ホンダのアコードを盗み、犯罪者はピザを食べる。古き良きではないもっと、スタイリッシュで現代的な描写でこれからもパーカーを活躍させてくれることを願う。

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悪党パーカー 地獄の分け前


新シリーズの中では一番面白い。盗みのアイディアとそれを上回る不慮のサスペンスが次々と起こり、飽きることがない。パーカーが簡単に相手を殺してカタをつけることをせず、知力を絞って突き進むので痛快だ。

パーカーは初めて組んだ三人組と一緒に強盗をするが、裏切られて分け前を持ち去られてしまう。パーカーの取り分は彼らの次の仕事のために使われる。金持ちたちが住むマイアミのリゾート地での強盗なのだが、そのやりかたが独創的過ぎて驚く。そしてその彼らを上回るパーカーの冷徹なプロの仕草。いかにもスターク=ウエストレイクらしい。そう、今回はドートマンダーシリーズでもおかしくないくらい、プロットとディテール描写に力が入っている。

いつものパーカーものを期待すると肩すかしを食らった気分になるかもしれない。私としては、作者の生み出したふたりの主人公が近づくことは大歓迎です。次もこの路線なのだろうか。

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赤塚不二夫のことを書いたのだ!!

赤塚不二夫のことを書いたのだ!! (文春文庫 た 66-1)赤塚不二夫のことを書いたのだ!! (文春文庫 た 66-1)

笑います、泣きます。すばらしくバカバカしい。マンガ家と編集者の最高の幸福な出会いが書かれています。

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