ブログ再開(仮)

長らく休眠状態だったブログを、久しぶりに再開しようと考えたのは、去年の後半くらいから、映画と映像周りの動きが活発になってきたように思えるからというのが最大の理由だ。これより前の大きな動きは、7、8年前のデジタル一眼レフだった。本格的デジタルシネマカメラRED ONEが登場し、その数年後、一気に映画のデジタル化が進んで、高画質のデジタル一眼レフの撮影によって、プロとアマの(機材の)差が曖昧になってきた。もちろん、スマートフォンと動画サイトの普及も見逃せない動きだった。

しかし、それらの動きも一周りして落ち着くと、結局は既存の映画製作と変わらなくなって来てしまった。これから先8Kの高画質が現われて普及しても、Blu-ray超えの映像配信が行われるようになっても、あまり興奮することはないだろう。もう数値を争うだけの話で、驚きはないかもしれない。これ以上のリアルな映像表現は、もう光学的には限界に来ているのではないかと思うからだ。

私は、映画(広義のpicture)の歴史は、「リアル」の獲得の変遷だと考える。絵画に於いて、古代エジプトの平面的な壁画が残されているが、あれは古代人がああいう風にしか見えなかったとか技法が稚拙だったからではなく、現代人の考えるリアルとは違って、横から見た時に重なって見えなくなる部分が無い方が、リアルと考えたからだと言われる。ルネサンスの一点透視図法も、あの時代の前から技法は知られていたが、当時はそれがリアルとは思われなかったということだ。その後リアルの追求は、光学機器カメラ・オブスクラを使う方法にたどり着く。しかしそれが生み出したリアルの行き着く先は、写真という表現でありメディアだった。その一方でそれに対抗して新たなリアルの確保が19世紀の半ばからはじまる、印象派、未来派、シュルレアリスムなどの、絵画芸術運動の数々だった。これらは自然科学だけでなく、深層心理や主観を含めてリアルを定義し直そうとした。

動く写真としてはじまった映画は、サイレント時代は絵画芸術運動と相俟って、リアルとは無縁の独自表現を追求していたが、トーキーの導入と共にトーキング・ピクチャーとなり、その歩みを止めた。モーターの回転速度が一秒24コマに固定され、カメラは正面から顔(唇)を撮ることのみが正解であり、リアルという法則(約束事)が成立した。映画スタジオで作られたリアルは、大量生産大量消費の時代と重なり映画は黄金期を形成した。

やがて、ハリウッドの外側から、表現の更新が始まる。フェリーニ、ベルイマン、黒澤は、検閲されたリアルを蹴散らし、映画表現の枠を拡げた。この前哨戦を引き継いで、更なる破壊を行ったのが、テレビとヌーヴェルヴァーグ。この二つが獲得したリアルは親密さだと思う。それは戦後の象徴としてのネオレアリズモの社会性とも違い、戦後文化の中の身近な生活の臭いがある、ベビーブーマー世代の若者たちの感性であろう。映画ではスターになれなかったルシル・ボールが「アイ・ラブ・ルーシー」で、TVスターになったことと、NYのメソッド・システムの薫陶を受けたマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンが登場するのは、リアルの変遷を考える上では興味深い現象だと思う。このように考えると、ヌーヴェルヴァーグは、方法論的にはテレビの影響を受けてリアルを再想像した映画の運動たっだと言えるのではないか。それは彼らと同時期にイギリスではTV出身のリチャード・レスターがビートルズ映画を製作していたのだから。小型16ミリカメラを使ってスタッフの自宅で撮られた「月光仮面」も、同じムーブメントに属していると思う。

ヌーヴェルヴァーグが飛び火したアメリカン・ニューシネマでも、同様なリアルに対する現象が見られる。しかし、この場合は、現実生活ではなく、過去の偏愛的なハリウッド映画の「リアル」の読み直しとして行われる。TV出身のウィリアム・フリードキンが『エクソシスト』『フレンチ・コネクション』で、スピルバーグが『ジョーズ』、ルーカスが『スター・ウォーズ』で、古典的ハリウッド映画の再構築が行われた。合言葉は「俺たちがテレビで見たハリウッド・クラッシックをリアルに撮りたい」だった。

その後もレンタル・ビデオやCATVチャンネルの普及によって、リアルは再々構築される。クエンティン・タランティーノの登場と、インディペンデントのアートハウス系の映画の人気が同時期だったことは、リアルの描かれ方としては大差なかったと言えるのではないか。

今世紀に入って、もはや新たなリアルの発見は期待出来なくなった。それを乗り越えるために間テクスト性を利用して、架空世界のリアルなユニバースを作ることと、予定調和を避けるために、作者するどこに行くか分からない「謎」というミスリードを濫用して、リアルなハプニング性の感覚を担保することができた。VFX技術の進歩も、この文脈で評価しなければならないだろうし、3D、4DX、ドルビーアトモス、VR、AR、MRも同様に、リアルの変遷の流れのなかで考えていく必要がある。単なる見世物としてのフィクション映画の延長ではないのだ。

さて、ということで、ずっと映画と映像のメディアや技術の動きを見ていると、ようやく次のフェイズに入るのかなと思えてきた。ゲームエンジンのリアルタイム・プロダクションを使ったニール・ブロムカンプのスタジオの動きや、実力は謎だが、期待度が大きいマジックリープのゴーグルの登場。VR、AR、MRは毎日のように新しい動きが見られる。これらの動きが既存の光学的なリアルの限界を越えられるのではないかと思っている。でもまだ、どういったリアルを確保する方向に行くのかは分からない。これから公開される、スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』がどこまで近未来を指向しているのかはとても楽しみだ。『マイノリティ・リポート』では、当時考えられていた、未来の映像インタラクティブ・ユーザーインターフェイスを見せたのだから、今回もどれくらいの先を行く表現が出てくるか徹底的に情報を漁りたい。

そんなことを考えながら、忘備録と勉強ノートを合わせてぼちぼちやっていきたいと思っています。

 

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FiLMiC Proからのデータ取り出し

iOSのヴィデオ録画アプリFiLMIC Proで撮影したデータが、IPhone内で作動しなくなり困ったが、ネットで情報を探して復旧できたのでまとめておきます。

基本データ:

iPhone6Plus 64GB iOS9.0.2

FiLMIC Pro5.0.2

ムービーデータ 14.65GB (1920☓1080)約60分

状況:

FiLMIC Proで録画後のムービーデータ確認中に、データが大きすぎると思いデータ圧縮ボタン(Downsample Clip)を押す。しかし時間がかかり作業がどれくらい進んでいるか分からないときに誤って、アプリを終了してしまった(ホームボタンを2度押してサムネイルを上にスワイプした)。

その後、FiLMIC Proを改めて起動したがすぐに終了してしまい操作が何もできない。IPhone本体を再起動しても状況は変わらない。FiLMIC Proを一旦削除して再ダウンロードしても同じこと。

iPhone本体からデータを取り出すのは難しいので、iTunes経由で移動させることにする。

対策:

最初にiTunesにムービーデータを同期させておくこと。

iPhone本体をケーブルを介して、PC(iMac)のiTunesに接続する。

左上のメニューボタンから、iPhone > 設定 Appを選択。

名称未設定

画面を下にスクロールすると「ファイル共有 以下のAppでは、iPhoneとこのコンピュータとの間で書類を転送できます。」が現れるので、FiLMIC Proのアイコンをクリックして、ダウンロードしたい.movファイルを探して選択する。

名称未設定 2

さらに画面を下にスクロールすると、「保存先…」のボタンが現れるので、保存場所を選択してPCにムービーデータをダウンロードをする。

名称未設定 3

ダウンロードしたデータをムービー再生アプリで確認すると、データの破損は確認されなかった。

教訓:

トラブルの際にムービーデータを取り出しやすくするためには、FiLMIC Proの設定で「カメラロールとの同期」を選択しておいたほうが良いと思う。そうすればiPhone本体の別のムービー編集アプリやファイル転送アプリから開くことができるかもしれない。

 

 

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ヒッチコック

映画監督のエリック・ロメールとクロード・シャブロルが批評家時代の1957年に書いた伝説的なヒッチコック評論本。本文は187ページと短いが、訳注が197項目と「ヒッチコック、新たな波ーーロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」という解説が素晴らしく充実しているので、半世紀近いブランクを埋めながら、単純に神話化することを潔いと考えない態度に共感する。それによって先に翻訳されたトリュフォーの『映画術』や他のヒッチコックの伝記本とともに知識や洞察を深めることができるだろう。ただし本書は『間違えられた男』までしか取り上げられておらず、その後の『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』『マーニー』を評論した時に本書の主張がどれくらい有効なのかは私たちが深く考えなければならない。

小河原あや氏による本書の成立状況の解説によって、私が長年疑問だったヒッチコックをカソリックに影響を受けた映画監督に位置付けたいとする本書の主張の理由がわかった(これは「映画術」でもトリュフォーがヒッチコックに直接確認する下りがある)。ひとつには著者のロメールとシャブロルが敬虔とは言えなくてもカソリック教徒であったこと。そしてもうひとつの理由が、これが重要なのだが「フランスのカソリックが当時の社会主義者へのカウンターとなっていた」ことを知って、驚くと同時にこれがヌーヴェルヴァーグに至るフランスの映画を介した政治・文化の闘争なのだと思った。

第四共和政の時代に映画界(製作と批評)を牛耳っていたのはソビエト(スターリン)の社会主義リアリズムに影響を受けていた左派であり、それに対抗していたのがキリスト教のカソリックの存在だった。(キリスト教側から見れば)「科学的進歩主義あるいは無神論」に対して「西欧的伝統に基づく芸術至上主義と(社会主義者側から見れば)「堕落した資本主義」の融合が拮抗していた。もちろん戦時中の政治闘争(レジスタンスかヴィシーか中立か)や戦中戦後の世代の違いもあるだろう。

そこにハリウッドの娯楽B級映画を推して、映画の「主題(テーマ性)」よりも「形式(スタイル)」を重視する、そこに「作家」という個人主義であり自由主義を導入することで西側自由(資本)主義社会の優位性が無意識に顕揚されることになる。その資本主義とカソリックと右派が結びつき、ド・ゴールとアンドレ・マルローの第五共和政成立の政治権力闘争で、老人と若者が手を結んだクーデターであり早すぎる文化大革命がヌーヴェルヴァーグという映画運動の正体ではないだろうか。アンドレ・バザンがカイエ・デュ・シネマに書いた「人はいかにしてヒッチコック=ホークス主義者であり得るのか」は勢いに乗って彼の元から離れようとする急進派の若者たちへの警告だったのかもしれない。本書は彼らのマニフェストであり、ヒッチコック&トリュフォーの「映画術」は理論と実践書なのだ。そしえ彼らは銃の代わりにカメラを手にし街へ出ていった。

もちろんヌーヴェルヴァーグは、「映画」の評価をより純粋な芸術に変えた部分もあるが、しかしこの運動の影響が未だにある種の映画の傾向と窮屈さを与えて政治性を引きずっている気もする。本当に「主題(テーマ)」に対して「形式(スタイル)」を優先させることが映画のためなのか。21世紀になってその弊害が現れていると思うし、それに対する創作者たちの試行錯誤が激しくなっているように思える。そこには資本主義の暴走にどのように向き合うかも含まれている。ハリウッドやグローバル化、デジタル技術に対して果たして映画はこれまで通り「形式」を追求するだけで良いのか。本書はある意味、「作家主義」の原点に戻り考えるきっかけになると思う。

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好きな芸術批評本

とりあえず思いついた7冊。批評家の主観、難解な言い回し、流行りの理論を使うのではなく、見えているものをどう読み解いていくか、膨大な周縁の知識をもとに丹念に腑分けして、本質を導く実証的な部分に重点を置いた本を選びました。

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