エイゼンシテイン・メソッド イメージの工学

数年前に「切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史」(河本 真理著)というべらぼうに面白い本を読んだ。ピカソとブラックによってはじめられたパピエ・コレの実験から「切断」をキーワードに近代アートの流れを読み解いている内容でとても刺激的だ。絵画の空間と時間を切断によって再構成する流れは「映画」になるのではないかと興奮したが、それについてはエイゼンシュテインが漢字を組み合わせで意味を表すモンタージュだと指摘している程度の紹介で軽く触れているだけで、その続きが読みたいと思っていたので遂に良い本に出会いたいへん満足。素晴らしい労作でアタマが活性化しました。

これまで日本では「エイゼンシュテイン全集」として論文はいくつも紹介されているが、そこにはソビエト時代には発表されなかったものも多くあり、これまで陽の目を浴びてきたのはその半分程度だったという。本書では2000年以降にアーカイヴから発掘され編纂された「モンタージュ」「メソッド」「無関心ではない自然」をもとにエイゼンシュテインの映画作法と理論の内容を解説している。

著者は、いくつかのキーワードを抽出しながらエイゼンシュテインの全体像を掴もうとする。そこには従来のモンタージュ理論でしか語られない枠組みを越えた、広い思想性が読み取れるだろう。いくつか本書から印象に残った文章を引用すると、

テクノロジーに向けて開放されているために、基本的には、エイゼンシュテインの映画はそのときどきの総合的な総体を有してはいても、全体として/にはひらかれている、それは、つねに再メディア化されていくゆくメディアとして考えられているということだ。

このように「深い」ところまでゆきとどいた歌舞伎の「論理性」を捉えたうえで、エイゼンシュテインはその原因を「視覚と聴覚を「通分する」」日本人の能力に求める。この能力は日本人独自の「世界感覚(ミロヴェスプリヤチエ)」ともいいかえられている。さらに進んで、彼はこの世界感覚を「知覚の未分化」とみなし、「子供の創造」、「治癒したばかりの盲人」の視覚世界と同じ問題系におく。

エイゼンシュテインの姿勢は、W・ベンヤミンの複製技術時代の視座にたつアドルノ/アイスラーには、「アウラ」の復活を望んでいるようにしか思えなかった。モダニストであっても人類学的モダニストであるエイゼンシュテインには、そもそも機械芸術とアウラの世界は矛盾するものではない。

一九二〇年頃、エイゼンシュテインはB・ズバーキン(ボゴリ二世)という人物に導かれて薔薇十字団のロッジに属することになる。

『イヴァン雷帝』の宮殿から大聖堂の身廊、柱廊につづく螺旋階段のシーンは当初10分間の移動撮影で撮る計画だったというが、予算の都合で従来通りのモンタージュになった。セットのデザイン画(写真あり)が載っているが、これができたら映画史は変わっていましたね。

一九三五年の第一回モスクワ映画祭の審査員を務めたときディズニーの『三匹の子ぶた』をグランプリに推したのだから、根っからのアヴァンギャルドだ。

単純にモンタージュ理論では捉えきれない宇宙を再構成するほどのスケールで映画に取り組んでいることが読み取れる。“ある意味”ではエイゼンシュテインの夢想した祝祭的神話的総合芸術は、“ある意味”『スター・ウォーズ』から現在のマーベルユニバースに至るハリウッド映画の流れで実現している気がする。“ある意味”だけど。映画の形式だけじゃなくそこに観客の積極的な参加もある野外劇として。恐るべき慧眼。

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映像から音を削る―武満徹映画エッセイ集


武満徹の映画についての文章を読むといつも背筋が伸びる思いがする。甘えや憧れあるいは慣れ合いではなく、映画との距離を取りながら真剣に向かい合っている様が読み取ることができるからだ。本書はこれまでの全集などには収録されていない文章も取り上げられている。
現在の日本映画界の状況からは理解出来ないだろう部分は、いくら斜陽産業と言われようと映画会社の力は絶大でそこから外れた独立プロの作品を製作・配給することがどれほど困難な状況であったか、それを想像することももはやできないのかもしれない。
「映画」という観念の具現化を推し進めると、どうしても最終的に残るのはドメスティックな部分になりがちだ。倒錯した考え方だが国際的な市場でウケる映画は大抵ドメスティックなものなのだ。フジヤマ、ゲイシャ、サムライといったオリエンタリズムのアイコンだ。
武満氏の思索を読んでいると、まず彼の映画音楽は劇伴ではない。映像と立ち向かい映像が語りかけてくる音を「音楽」へと昇華する。だから「音楽」という純粋なイメージを突き詰めるときに、物欲しげな映像は自然と淘汰されていくのではないだろうか。
これは「映画音楽」にある種の固定観念や期待を持った観客や製作者からは疎まれることになるだろう。だからといって彼の音楽自体が観念の世界から降りてこないことはない。映画におけるポピュラー音楽の使い方を見ると真摯な顔の向こうにやさしい表情がみえてくる。
武満氏は映画を愛する余りに映画に全世界性を求めすぎたところがあったのではと思う。その思考のスケール感はきらいではない。むしろこれから私たちが真摯に取り組む部分ではないだろうか。

この歌の由来はこの本を参照。
http://youtu.be/y3fs_md_I-w

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マッケンドリックが教える 映画の本当の作り方

『マダムと泥棒』(56)、『成功の甘き香り』(57)を監督した、アレクサンダー・マッケンドリックは、1969年に映画界を引退後、カリフォルニア芸術大学(カルアーツ)で教鞭をとった。本書は、その授業で使われた資料を中心にして構成されている。

「映画監督になるためにはどうしたらよいか?」学校で学生が映画を学ぶとき、教える側には大体二つの態度がある。個性を尊重すると称して、ひとりよがりな作家みたいな出来損ないの作品を作らせて芸術と鼓舞するやりかた、反対に徹底的に、いまある業界で主流の技術のみを教えるやりかただ。どちらにしても卒業後、実際に現場に出たら役に立たず、また最初からやり直す羽目になることは間違いない。

著者のマッケンドリックが自らを仕事人を称することからもわかるように、ここではひとりの作家を生み出すことを目的にしていない。学生がすぐ口にする、もうそのやり方は古いなどという態度をたしなめる。映画は共同作業なのだ。ひとりでは作れない。逆に技術だけを教えることもない。技術は日々進歩するからいつまでも教わったひとつのやり方に拘泥していても仕方がない。身も蓋もないことを言えば、映像言語は教えられないのだ。あるいは教わっても意味がないのだ。

しかし、何とかして映像を観客に伝えようとした先人たちがいたし、その優れた作品がある。彼らが積み重ねてきたことを分析し、読み解くことで、映画を作ることが学べるのではないか、という試みが本書の内容だと言える。だから、既に映像や映画を作っている者から見たら、身についていてもはや常識なことばかりだけれど、助手として現場で走りまわって基礎を学んだ者が、一本立ちをするときに読み直せば、いままで言われたままにやってきたことにはこんな意味があったんだということに気づくはずで大変参考になるだろう。むしろ学生にとっては難しい内容だと思う。だけど、学生の時に読む価値のある本だ。授業を受けた映画製作者が語っているように、実際に現場に入ってはじめて学んできた授業の内容が理解できて、それがずっといまでも役に立っているという。そんな実践的な教科書だ。

実践的と云っても、技術書ではない。確かにシナリオの構成や、キャメラの置く場所、モンタージュの基本を教えるが、手っ取り早くマネをすれば“映画らしく見える”ノウハウではなく、なぜそうするのか、なぜそれが効果的なのかを理解させることが目的になっている。だからこれを学んでいくことで、監督、プロデューサー、撮影、シナリオライターと職種が違っても、同じ「映画」に対する共通の認識を作り出すことができるようになる。作り手として「映画が読めるようになる」のだ。それができれば、そこから先、個々人がどのような作家を目指そうと、技術が新しくなろうと何の問題もない。更なる高みに行くことができるのだ。マッケンドリックはそのことを「プロダクト(製作)ではなくプロセス(過程)」が大切だと繰り返して語ったという。芸術ってそういうものじゃないかな。教育ってそういうものじゃないかな。

個人的に、特に面白かったのが、「シーンの密度とサブプロットの役割」として、『成功の甘き香り』のシナリオを取り上げ、アーネスト・レーマン(『北北西に進路を取れ』)の書いた、第一稿を、クリフォード・オデッツがどのように書き直したかを、あるシーンを取り上げて解説する章だった。オデッツの才能の凄さを目の当たりにした気分です。さすが一流の戯曲家です。

最後にもう一度、本の序章に書かれた最初の言葉を引用します。

映画は媒体である。映画とは、作り手の想像力から、そのメッセージの発信先にいる人々の心の目と耳に、特定のコンセプトを伝達するコミュニケーション言語である。したがって、そこには絶対的なものは何一つ存在しない。受け手に解釈されて、その人の想像力に意味がもたらされないかぎり、そこにあるあらゆるものが無意味だ。この事実は、そんな言語や媒体にも当てはまるだろう。媒体とは、ある種の取決め、つまり、語り手と聞き手、絵を描く者とそれを見る者、演者と観客によって長年かけて培われてきた約束事によって成り立っている。長い年月を経て、意味づけのシステムが確立され、その言語における語彙や体系や文法が養われてきたのである。そんなわけで、こういったコミュニケーション言語は、観客と書き手が新しい表現方法を開発しようとしている限り、ゆっくりしながらも常に進化し続けている。

成功の甘き香り

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映像+ 03 特集 特殊造型・メカニカルの現場

[PHOTO]映像+ 3 特殊造形・メカニカルの現場

グラフィック社

今回の目玉はVFX工房、K.N.B.EFX訪問。

ファン気質丸出しで、オオッあれは、あの映画のゾンビで、あれはあの役者の生首…。傷メイク講座も為になります。

特殊メイクアップの江川悦子に密着。『ゲゲゲの鬼太郎2(仮)』のメイクの現場が見られます。

操演(ピアノ線で吊るあれね)講座。

様々な日本の伝統的な技がすごい!デジタルでは決してできない、このノウハウの記録だけでも圧巻です。

また、実際に恐竜の赤ちゃんを作り、モーターを仕込み、ラジコンで操作するまでを、40ページにわたって、材料・工具から、仕組みまで写真と解説付きで紹介している。

角川映画の役割をきちんと書いた日本映画美術略史もいい記事です。

特殊メイク、造型の人たちの技術の公開する姿勢が、このような編集を可能にしているのだと思う。それは彼らの師匠である、ディック・スミスやリック・ベーカーの姿勢であることは、中子さんの「SFXの世界」などを読んでいて感じていたが、その考えがいまも続いていることに感激しました。 彼らの誇り、職人技はそのさらに先にあるということなのですね。

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