光の正統性、あるいは、私は心配するのを止めて如何にして映画を見るようになったか

少し前に、ある人と話しているうちに「どのように映画を見ているか」という話題になって、あれこれ話したのだがお互いに納得して理解できたかはいささか不明だった。改めて考えてみると、私が十代から二十代にかけて、それこそ当時猛威を奮っていた「画面の中だけを語る」病に罹らなかったのは、映画を批評家のように見ていなかったからだと思っている。中学生の頃から、私にとって映画を見ることは、どうやって映画が作られているかを知るための手段だった。平たく言えば映画を見ることは、映画監督になるために訓練だった。そのためにはスクリーンを凝視しての、我を忘れてのめり込むんじゃなくて、逆にある程度客観的に醒めながら距離を置いてみる(でも面白い映画には、すべてを放り投げて没入しまうのも確か)。もっと言うならば、スクリーンをキャメラのファインダーを通した画として覗き込み、更に自らは幽体離脱して、撮影現場を俯瞰して見る位置に透明人間なって観察する。その時には、ここはどんなロケ場所で、ライトの光の方向はどこに向けられているのかに注意しなければならないし、どのように移動車のレールがどのように敷かれているか、あるいはステディカムはどういうルートを通って何を捉えようしているのか、なぜカメラはどうしてここあって、この高さに置かれているのかを瞬時に見て取り、同時に考えないとならない。そして監督は、どういう風にシナリオを解釈して、どのタイミングで役者を動かし、どうしてこのテイクにOKを出しているか、その理由を見抜くようにする。だから座席に座りながら、受け身じゃなくてひたすら能動的に、映画製作の撮影現場、編集室、ダビングスタジオを飛び回って、上映されている一本の作品を遡って、バラバラにして、リバース・エンジニアリングで再構築によりその具体的な工程から意味を探る。当然、まず最初に全カットを暗記しようと努める(これは気力が必要でかなり疲れるので、30歳くらいで止めましたけど、いまもある程度はできると思う)。だから一本見ると、眼だけでなく心身消耗してヘトヘトになるから、映画を見るためには体調を整える必要があるし、ビールを飲んだりポップコーンなど頬張るヒマすらない。このやり方は無勝手自己流だったけど、非常に役立ったと思う(特にひとにはススメはしませんが)。以前、あるスチルカメラマンと話をした時に、彼も助手時代は街を歩きながら、一日中、様々なシチュエーションで、常に露出とシャッタースピードを目視で計測する訓練をしていたという。映画/映像は光から成っている。だから光を読むってそういうことだと思う。

まあ、それは汎用性が無い、個人的な動機に基づいたメソッド(?)だったと思うが、しかしこれだけでは、現場のノウハウであって、面白い映画を作るための手助けにはならないのではないか。映画の良し悪しを判断するためには何が必要で、どこを見ればよいのか。良い映画と呼ばれている作品ばかり見ても、自然に自分の鑑賞眼が上がるわけでもない。それよりも自分独自の鑑賞眼を鍛えて、自分なりの見方を確立して、映画の良し悪しを見るようにしたほうが面白いはずだと気づいた。わかりやすく言うと、ジョン・フォードとアルフレッド・ヒッチコックとハワード・ホークスとジャン・ルノワールと小津安二郎と溝口健二と黒澤明を、等価に評価するためにはどうしたら良いのか。スタイルやアプローチが違う映画作家と呼ばれる人を論じる方法があるのだろうか。また同じ映画作家でも常に同じスタイルとは限らない、いつも同じ歌ばかり歌っているわけではないということも忘れてはならない。結局誰かが褒めていたからというのでは、他人の目を借りているだけではないか。もちろん昔から言われるように、映画評論と野球評論は誰でもできるので、そんな目くじらを立てることかと言われると敢えて反論はしませんが、たくさん映画を見ているなら、自分なりの目利きはしたいものです。

いろいろ考えました。構図の作り方が絵画的か、シンメトリーを重視しているか(例:キューブリック)、人物と背景の図と地の余白の作り方。わかりやすいシンボリックな動作、「投げること」と「交換の仕草」、「水と火と土と風」、「運動」とか「差異」とか「似ているところ(オマージュ)探し」など考えましたが、そのようにザクッとした言葉で分類しても、画面に出てくる映像のパターンは、基本的には大体似たり寄ったりなので、簡単に「これは◯◯の映画だ」と名付けることができるし、それで何か言った気になる罠に、自ら率先して落ちてもしょうがないと思ってすぐに止めた。周りが「リュミエール」のハメルーンの笛に引き寄せられて、ダークサイドに落ちていくのを横目で見ながら(現に壊れたテープレコーダーのようにデッドコピーの如く、本に書いてあることと全く同じことを語る人を何人も見た)、長い思索と試行錯誤の果てにたどり着いたのが、「光の正統性」だった。

あ、その前に元々小林信彦の洗礼を浴びていたから、野暮は言いたくないって思っていたのもありますね。

さっき書いたように、長回しか短いカット割りか、手持ち撮影かフィックスか、スタイルの違う映画作家を好きになるだけなら難しくないが、どうやって同じ土俵で評価したら良いのか。そのためには基準を見つけないとならないと考えた結果が「光の正統性」です。「光」そのものは普遍でしょう。太陽は東から昇り、南側を通って西に沈む自然光。夜は何らかの人工光が必要になる。当然のこととして映画は真っ暗だと映らない。そして光があるとカゲができる。カゲには二種類あって、「影」(Shadow)と「陰」(Shade)がある。 光も様々だ。極度に明るいハイライトや物体に当たってできる反射光がある。フィルムも屋外のデイライト・タイプと、屋内のタングステン・タイプがある。照明も色温度によって変わったりする。被写体に真っ直ぐに当てる直接光と、バウンスして当てる間接光がある。これらを各カット、各シーン、作品全体としてどのように扱っている/扱っていないのかを丹念に見ていくと、映画のつくり手の企みが分かるようになってきた。

映画の作り手たちは、映画を物語るために光をどのように扱うか、それは映画の感情を光で表現することだと考えています。

「光の正統性」というのは、その時に映画としての美しさを作り上げるために、光/カゲを想像することであり、そのためには光線が美しくあれば、人間は映画の嘘を信じてしまうという特性を利用することなのです。最近はカメラのダイナミックレンジが広くなったので、自然光でかなりの時間帯でもライトが無くても、それなりの美しさで撮れるが、それでも、意識していようが無意識だろうが、どの時間にどうやって撮るのかという光源(ライトソース)をどう扱うのかという問題は不変であり、それは全て画面に現われます。逆に言うと、映画で表現するためには、その映画のための光を選んだり作ったりしないとなりません。わたしはそれを「映画の感情をつくる」と呼んでいます。たとえ現実にありえないような光であっても、見る人に感動を与えるために光のパレットを扱う。それが映画の面白さであり、優れた映画のほとんどはそうやってできていると思うのです。ただしコメディやミュージカルはまた別もので、徹底的にフラットな画面にするために光は貢献しています。もちろんドラマチックさを表現するための光は、演劇から来ていることも否定しません。しかし映画の場合は、演劇よりも広範囲の光を扱うことができます。別の言い方をすると光を音楽のように扱えると言えるのかもしれません。

念のために言っておくと、雑な照明をしているからダメなのではなく、「光に正統性」を与えられないからダメなのです。この光は、この映画のため、このシーンのため、このカットのための、どういう意味があるのかを感じさせないことが問題なのです。画面の美醜の問題ではありません。ヴィム・ヴェンダースが『ことの次第』で、『美女と野獣』の撮影監督アンリ・アルカンと初めて仕事をした時に、なんて雑な仕事をするのかと思ったそうだ。それは一つのカットで人物が動くと影がいくつも出るような照明をしていたからだ。ヴェンダースはその前に『ハメット』で、ロバート・アルドリッチの撮影監督だったジョゼフ・バイロックと組んで、人物の重なる影を一つ一つ丁寧に消していたという。しかしラッシュが上がった時に、プリントの美しさに打ちのめされた。アルカンは光と影でモノクロを表現するのでは無く、中間のグレー(灰色)の濃淡で映像表現しようとしてたという逸話がある。光の正統性を考える時、正解はないところが面白いと言えます。夜は暗くて当然だけど、どうしたらそのなかでドラマで表現できるのか。どの明るさを選ぶのか、光源は何を選ぶのか、その理由は何か。それらを映画製作者がどれくらい考えているか。すべてのカットには、意味があり、それは創造的な恣意性/潜在的な無意識によって選択された美意識なのです。同時に予算、技術などの制約があります。それを探すためには、光をひたすら見つめること。比喩表現じゃなくて、頭で考える「美しさ」に簡単に誤魔化されないで、本当の美しさ/美しくなさを見出すこと。それが映画の面白さを読み取り、映画に近づく方法だと思うのです。

 

 

Pocket
LINEで送る

[ゴダール再考]を補足する

キネマ旬報2015年1月下旬号に「特集「さらば、愛の言葉よ」[ゴダール再考]最先端映像テクノロジーヲタク、ゴダールを追え!」と題した記事を執筆しました。内容はこれまでブログを中心に書いてきたものをまとめ直しています。涙を飲んで(?)端折ったところもあるので思いつくあたりをもう少し詳しく書いてみます。

ゴダールに関してはいつも「ヌーヴェルヴァーグ」「60年代の斬新でポップな」「過激で政治的」「女たちと愛」といったたくさんのキーワードが並びながらも、その全容となると漠然として掴みづらい印象があります。特に68年から一度商業映画から離れてしまってからは、「ゴダール伝説」がひとり歩きして誰も触れることができない殿堂入りのようになっていますから褒めておこうという空気が蔓延しています。あるいは逆に私の見ている映画とは関係ないものだと思ってしまうかのどちらかになっているのではないでしょうか。

果たしてゴダールは既存の映画からは理解や解釈ができない孤独で哲学的な芸術家なのだろうか。彼が毎回天才的な閃きだけであっと言わせる映画を作り続けてきたのだろうか。画家のパブロ・ピカソを時代別に見ると「青の時代」「キュビズムの時代」などと区分されて紹介されます。その時代ごとのスタイルは変化しますが、なぜその変化が起きたのかは彼の作品や発言を辿ると理解することができます。ゴダールの場合も同様に彼の作品や行動を辿り発言を注意深く読み解くことで、なぜ「さらば、愛の言葉よ」が3Dで製作されるに至ったかを知ることができるでしょう。じつは本編の中に『ピラニア3D』のフッテージがちらりと引用されています。『アバター』を製作・監督したジェイムズ・キャメロンの(フィルモグラフィーから消されている)デビュー作が『殺人魚フライングキラー(または『ピラニア2』)』(81)なのです。これはゴダール流の皮肉なジョークでしょう。

ゴダールは『勝手にしやがれ』から一貫してハリウッドとの距離を測ってきました。ハリウッドが圧倒的なテクノロジーと物量の伝播によって映画史を塗り替えていく様を眺め映画について考察を重ねてきました。その一方でより自由で個人的な映画を製作するためにヴィデオテクノロジーへの興味を失うことはありませんでした。スイスにある彼の自宅に備え付けられて最新のヴィデオ編集スタジオは、画家のアトリエの延長にあると言ってもよいでしょう。

この相反するふたつのテクノロジーは、「映像のデジタル化」によって融合します。絵の具箱を抱えて森のなかでカンバスを広げて描くように、ポケットの中でハリウッドと同レベルの映像と音声が誰でも生み出すことができる時代が来たのです。ゴダールはこの時代をある意味では『勝手にしやがれ』のときから熱望していたといっても良いでしょう。彼がこれまでに何度も述べてきた「私だけが真のヌーヴェル・ヴァーグだ」という発言の真相はここにあるのでしょう。彼の作品はすべてが習作であり映画についての実験作品(実験映画ではない)なのだ。完成とは画家のようにこれ以上は描くことがないと筆が止まってもう動かなくなる時に過ぎない、すべてはプロセスなのだ。

また過去も現在も自己も他者も解体しながら、再びすべての映画/映像と音声は同価値であり再創造されるコラージュの手法は『ゴダールの映画史』の完成から、十数年後にYouTubeで私たちの日常の姿となっています。現在複数の映画史が世界中の個人の手で数限りなく生み出されているのです。私たちが映画=フィルムと考えている間にさらに深い場所へと進んでいき、何年も先に進んでいるのです。果たして彼以外に映画とテレビの歴史を深く考えている映画/映像作家や批評家はどれくらいいるでしょうか。常に未来を預見しながら生み出すことも作家のひとつの大いなる仕事だと思います。

次にゴダールが向かう方向はVR(ヴァーチャル・リアリティ)ではないでしょうか。スマートフォンが街中に溢れいたるところに無数のモニター画面が存在する現在、これまでの単一の時間を共有する映画スクリーンの概念を壊すことで、映画の限界を越えて拡げていく姿が予想されます。逆にHFR(ハイ・フレーム・レート)の48pは興味がないのではないか思います。すでに70年代にスローモーションを多用した実験を開始して、アナログ・ヴィデオを駆使したテクノロジーとの戯れは既に完成の域に達しているのではないでしょうか。この試みはサイレント映画の16コマのほうがトーキー映画の24コマより美しいのはなぜかという疑問から始まり、ブライアン・デ・パルマのハリウッド映画『フューリー』(78)のスローモーション・シーンに驚き考察を重ねて、『勝手に逃げろ/人生』(79)の間欠スローモーションとなって表現されました。

永遠に絶え間ない荒々しい波を自ら生み出す、世界で一番若々しく瑞々しい映画/映像作家の現在進行形の試みをぜひ3Dでご覧下さい。

Pocket
LINEで送る

メインストリーム――文化とメディアの世界戦争

フランスの文化外交官の著者が書いた前作『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、2009)では、わたしたちの想像するイメージとは違うアメリカの文化政策の姿を分析して大いに驚かせたが、その視野を世界中に広げ千人以上の取材を重ねて書き上げた本作は2010年に発行された。

時期的にMyspaceが流行り、YouTube、Facebook、Twitterの記述が殆ど無いのでその点は不満だがそれ以前の世界のメディアの概況が大いに理解できる。主にハリウッド映画、ポーリン・ケイルからオプラ・ウィンフリーまで。モータウンからラティーノ音楽産業、南米のテレビ産業、ボリウッド、中国の新市場の立ち上がり、K-popと日本の文化政策、アルジャジーラ、ヒズボラからサウジアラビアの王子などの中東のメディアへの投資、立ち遅れる東欧の事情、ネットの発展でメディアの南南貿易が広がるアフリカと、西欧以外の事情はほぼ包括的かつ現場の具体的な声まで入っている詳細なレポートだ。

私が一番興味深かった部分は、20世紀に半ばまでメディア文化を支配していたハイカルチャーとローカルチャーという分類が、前者が揺るぎない歴史と輸入された文化であることに対して、後者がローカルな刹那的な大衆文化であった、その価値観がカルチュラル・スタディーズの導入で崩れていく。そしてハイとローの区別が明確でなくなりすべてがサブカルチャーとして処理されるようになる。そして次の若い世代はそこに現れたメインストリームの文化を自らのアイデンティティとしていく。コカコーラ、ハリウッド映画、MTVというアメリカナイズされたものを無意識のレベル近くまでローカライズして楽しむことになる。それが文化慣習に根付いたコメディや生活圏と融合してTVドラマやポピュラーソングとなっていく。一方のハイカルチャーの名残はアカデミズムと文化政策により保護されるアートになっていく。しかしグローバル化とともに輸出できるコンテンツとしてもう一度見直すると、国民に人気があるハリウッド型ドメスティック文化は売り物にならず、外国ウケする(架空の)アイデンティティを持った国民が知らないようなコンテンツが海外に出回るが市場にアピールせずに終わる。そして結局は本場のハリウッドやアメリカのテレビや音楽が依然として世界のメディアを席巻することになる。ここで再びボードリヤールが浮上してくるのも皮肉なような気がする。

この二重三重のねじれがまさに国民国家の幻想と重なっているのだ。ローカルなものをグローバル化するときにナショナリズムをどのように解消するか、まさに日本や韓国のメディア産業が苦しんでいる正体がわかるような気がする。またこれまで南北のハブであった都市の役割がネットや衛星で変わることを示唆する。これまでのアフリカの音楽や文化は、ロンドンやパリ経由でアフリカの別の国に普及していたが、ネットの普及でアフリカ域内で直接貿易が起こるようになった。そのためにヨハネスブルグが新たなハブとなった。そこにハリウッドや音楽産業はスタジオや人材教育の力を入れてきている。

作者は西欧の停滞を嘆き自国の文化を活性化することを促す。それは偽善的な文化の多様化を訴えるのではなく、本当に自国の移民二世三世の文化との融合を目指し真の文化の多様化による再生を目指すべきだと指摘する。

個人的には、これらの正式ルートに加えて「海賊版」が生み出すクレオール文化の可能性にも期待したい。ハイ、ロー、サブを越えるアンダーグラウンドな文化の発展はここにあると思いこれからも注目していきたい。


Pocket
LINEで送る

デジタルシネマ・サバイバル・ハンドブック #03

録画(3/25までの公開)http://www.ustream.tv/recorded/30072099

 

#03 レジュメ

#02 レジュメページ

#01 レジュメページ

アルフレッド・ヒッチコックwiki

オーソン・ウェルズwiki

 

わかりやすいヒッチコック映画の紹介クリップ

『下宿人』

『レベッカ』

http://youtu.be/jGShusTsWhc

『汚名』

 

デヴィッド・O・セルズニックwiki

 

『ロープ』

http://youtu.be/qdcGfFxcc9w?t=4m58s

『山羊座のもとに』

『裏窓』

『めまい』

『北北西に進路を取れ』

「ヴードゥーマクベス」舞台

「火星人襲来」ラジオ放送

『市民ケーン』グレッグ・トーランドとの仕事、ミニドキュメンタリー

『偉大なるアンバーソン家の人々』

『ストレンジャー』

http://youtu.be/o8HDEKe4uFM

『上海から来た女』

http://youtu.be/LvhoeL3Vv-c

『マクベス』

『第三の男』

『アーカディン氏』

http://youtu.be/PuB4rNi_SEI

『オセロ』

http://youtu.be/tx6CEJbaVwg

『黒い罠』

『黒い罠』オープニングショット

http://youtu.be/BrwNNHVDzgQ

カリフォルニア州・ヴェニス Google Map

<a style="color: #0000ff; text-align: left;” href=”https://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=embed&hl=ja&geocode=&q=Danny’s+Venice,+Los+Angeles,+CA,+United+States&aq=0&oq=danny,+CA,+United+States&sll=33.986904,-118.472582&sspn=0.001746,0.003482&brcurrent=3,0×0:0x0,0&ie=UTF8&hq=Danny’s+Venice,+Los+Angeles,+CA,+United+States&t=m&ll=33.987175,-118.473258&spn=0.010675,0.012875&z=15&iwloc=A”>大きな地図で見る

『黒い罠』 56分30秒付近〜 エレベータ内手持ちカメラのシーン

Watch Touch of Evil – Orson Welles in エンターテイメント  |  View More Free Videos Online at Veoh.com

『サイコ』予告編

『サイコ』シャワーシーン

ソール・バスによるシャワーシーンの絵コンテ

 

ソール・バスの映画タイトルデザイン集

 

『鳥』

『審判』

ザプルーダー・フィルムwiki

ザプルーダーが使用したベル & ハウウェル社製8mmカメラ “Zoomatic”

ケネディ大統領暗殺事件wiki

『マーニー』

『引き裂かれたカーテン』

『カレイドスコープフレンジー』について

『フレンジー』

『フェイク』

『ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・ウィンド』

「市民ケーンのオーソン・ウェルズが愛情をそそいだソニーベータカム 」

ベータカムヴィデオwiki

SONY BVW-1

ヒッチコックが唯一受賞した68年のアカデミー賞(アーヴィン・G・タールバーグ記念賞)での有名なスピーチ

参考資料

Pocket
LINEで送る