UnknownHollywood #7 アフタートーク

7/26(日)に開催したUnknownHollywood #7。テーマは「ラジオ、テレビ、映画〜メディアの相互関係」。当日の上映作品はジャック・­ベニー主演「マイホーム騒動記 George Washington Slept Here」(42)

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エイゼンシテイン・メソッド イメージの工学

数年前に「切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史」(河本 真理著)というべらぼうに面白い本を読んだ。ピカソとブラックによってはじめられたパピエ・コレの実験から「切断」をキーワードに近代アートの流れを読み解いている内容でとても刺激的だ。絵画の空間と時間を切断によって再構成する流れは「映画」になるのではないかと興奮したが、それについてはエイゼンシュテインが漢字を組み合わせで意味を表すモンタージュだと指摘している程度の紹介で軽く触れているだけで、その続きが読みたいと思っていたので遂に良い本に出会いたいへん満足。素晴らしい労作でアタマが活性化しました。

これまで日本では「エイゼンシュテイン全集」として論文はいくつも紹介されているが、そこにはソビエト時代には発表されなかったものも多くあり、これまで陽の目を浴びてきたのはその半分程度だったという。本書では2000年以降にアーカイヴから発掘され編纂された「モンタージュ」「メソッド」「無関心ではない自然」をもとにエイゼンシュテインの映画作法と理論の内容を解説している。

著者は、いくつかのキーワードを抽出しながらエイゼンシュテインの全体像を掴もうとする。そこには従来のモンタージュ理論でしか語られない枠組みを越えた、広い思想性が読み取れるだろう。いくつか本書から印象に残った文章を引用すると、

テクノロジーに向けて開放されているために、基本的には、エイゼンシュテインの映画はそのときどきの総合的な総体を有してはいても、全体として/にはひらかれている、それは、つねに再メディア化されていくゆくメディアとして考えられているということだ。

このように「深い」ところまでゆきとどいた歌舞伎の「論理性」を捉えたうえで、エイゼンシュテインはその原因を「視覚と聴覚を「通分する」」日本人の能力に求める。この能力は日本人独自の「世界感覚(ミロヴェスプリヤチエ)」ともいいかえられている。さらに進んで、彼はこの世界感覚を「知覚の未分化」とみなし、「子供の創造」、「治癒したばかりの盲人」の視覚世界と同じ問題系におく。

エイゼンシュテインの姿勢は、W・ベンヤミンの複製技術時代の視座にたつアドルノ/アイスラーには、「アウラ」の復活を望んでいるようにしか思えなかった。モダニストであっても人類学的モダニストであるエイゼンシュテインには、そもそも機械芸術とアウラの世界は矛盾するものではない。

一九二〇年頃、エイゼンシュテインはB・ズバーキン(ボゴリ二世)という人物に導かれて薔薇十字団のロッジに属することになる。

『イヴァン雷帝』の宮殿から大聖堂の身廊、柱廊につづく螺旋階段のシーンは当初10分間の移動撮影で撮る計画だったというが、予算の都合で従来通りのモンタージュになった。セットのデザイン画(写真あり)が載っているが、これができたら映画史は変わっていましたね。

一九三五年の第一回モスクワ映画祭の審査員を務めたときディズニーの『三匹の子ぶた』をグランプリに推したのだから、根っからのアヴァンギャルドだ。

単純にモンタージュ理論では捉えきれない宇宙を再構成するほどのスケールで映画に取り組んでいることが読み取れる。“ある意味”ではエイゼンシュテインの夢想した祝祭的神話的総合芸術は、“ある意味”『スター・ウォーズ』から現在のマーベルユニバースに至るハリウッド映画の流れで実現している気がする。“ある意味”だけど。映画の形式だけじゃなくそこに観客の積極的な参加もある野外劇として。恐るべき慧眼。

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知られざるハリウッド・クラッシック Vol.6 「想像力の実験工場」アフタートーク

6/8開催のアフタートークのVTRです。

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ヒッチコック

映画監督のエリック・ロメールとクロード・シャブロルが批評家時代の1957年に書いた伝説的なヒッチコック評論本。本文は187ページと短いが、訳注が197項目と「ヒッチコック、新たな波ーーロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」という解説が素晴らしく充実しているので、半世紀近いブランクを埋めながら、単純に神話化することを潔いと考えない態度に共感する。それによって先に翻訳されたトリュフォーの『映画術』や他のヒッチコックの伝記本とともに知識や洞察を深めることができるだろう。ただし本書は『間違えられた男』までしか取り上げられておらず、その後の『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』『マーニー』を評論した時に本書の主張がどれくらい有効なのかは私たちが深く考えなければならない。

小河原あや氏による本書の成立状況の解説によって、私が長年疑問だったヒッチコックをカソリックに影響を受けた映画監督に位置付けたいとする本書の主張の理由がわかった(これは「映画術」でもトリュフォーがヒッチコックに直接確認する下りがある)。ひとつには著者のロメールとシャブロルが敬虔とは言えなくてもカソリック教徒であったこと。そしてもうひとつの理由が、これが重要なのだが「フランスのカソリックが当時の社会主義者へのカウンターとなっていた」ことを知って、驚くと同時にこれがヌーヴェルヴァーグに至るフランスの映画を介した政治・文化の闘争なのだと思った。

第四共和政の時代に映画界(製作と批評)を牛耳っていたのはソビエト(スターリン)の社会主義リアリズムに影響を受けていた左派であり、それに対抗していたのがキリスト教のカソリックの存在だった。(キリスト教側から見れば)「科学的進歩主義あるいは無神論」に対して「西欧的伝統に基づく芸術至上主義と(社会主義者側から見れば)「堕落した資本主義」の融合が拮抗していた。もちろん戦時中の政治闘争(レジスタンスかヴィシーか中立か)や戦中戦後の世代の違いもあるだろう。

そこにハリウッドの娯楽B級映画を推して、映画の「主題(テーマ性)」よりも「形式(スタイル)」を重視する、そこに「作家」という個人主義であり自由主義を導入することで西側自由(資本)主義社会の優位性が無意識に顕揚されることになる。その資本主義とカソリックと右派が結びつき、ド・ゴールとアンドレ・マルローの第五共和政成立の政治権力闘争で、老人と若者が手を結んだクーデターであり早すぎる文化大革命がヌーヴェルヴァーグという映画運動の正体ではないだろうか。アンドレ・バザンがカイエ・デュ・シネマに書いた「人はいかにしてヒッチコック=ホークス主義者であり得るのか」は勢いに乗って彼の元から離れようとする急進派の若者たちへの警告だったのかもしれない。本書は彼らのマニフェストであり、ヒッチコック&トリュフォーの「映画術」は理論と実践書なのだ。そしえ彼らは銃の代わりにカメラを手にし街へ出ていった。

もちろんヌーヴェルヴァーグは、「映画」の評価をより純粋な芸術に変えた部分もあるが、しかしこの運動の影響が未だにある種の映画の傾向と窮屈さを与えて政治性を引きずっている気もする。本当に「主題(テーマ)」に対して「形式(スタイル)」を優先させることが映画のためなのか。21世紀になってその弊害が現れていると思うし、それに対する創作者たちの試行錯誤が激しくなっているように思える。そこには資本主義の暴走にどのように向き合うかも含まれている。ハリウッドやグローバル化、デジタル技術に対して果たして映画はこれまで通り「形式」を追求するだけで良いのか。本書はある意味、「作家主義」の原点に戻り考えるきっかけになると思う。

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